松江城
別名 千鳥城 | 付近住所 島根県松江市殿町 | 現在- |
2008/11/25 | 碑・案内板・現存天守アリ | 日本城郭大系 |
出雲富田藩より 堀尾吉晴→ 堀尾忠氏→ 堀尾忠晴 改易 小浜藩より 京極忠高 龍野藩へ 松本藩より 越前 松平直政→ 松平綱隆→ 松平綱近→ 松平吉透→ 松平宣維→ 松平宗衍→ 松平治郷→ 松平斉恒→ 松平斉貴→ 松平定安 |
堀尾氏は豊臣秀吉、徳川家康に仕え、関ヶ原の合戦で武功をたてた堀尾忠氏(堀尾吉晴としる説もある)は慶長5年(1600)出雲・隠岐両国24万石(23万5千石とする説もある)を与えられ、広瀬の富田城に入城した。 しかし、富田城はその周辺を高い山に取り囲まれ大砲などを使う近代戦に不利であったことと、侍を住まわせるに広大な城下街を形成しなければならなかったことなどの理由からこの極楽寺山(亀田山とも言う)に城地を移した。 築城工事は慶長12年(1607)から足かけ5年を費やし慶長16年(1611)に一応の完成をみた。城地の広さは東西360米、南北560米あり、周囲に幅20〜30米の内濠をめぐらす。 標高28.1米の頂上部に本丸を置き、荒神櫓をはじめ6か所の櫓とそれをつなぐ細長い多門がめぐっている。天守は本丸の東北隅に築かれている。二之丸は本丸の南側に一段低く隣接し御書院や御広間などがあった。本丸の東側の平地は二之丸下の段と呼ばれ藩士の扶持米などの米蔵が立ち並んでいた。 その外、本丸の周辺には腰曲輪、中曲輪、外曲輪、後曲輪があった。城山の南には三之丸(今の県庁附近)があり藩主の御殿があった。 石垣用の石材は、松江市の東部、大海崎、福富地区の山麓から産出する安山岩(いわゆる大海崎石)が大量に使用され堀尾氏の家紋である分銅型などの刻印が認められる。 城主は堀尾氏、京極氏と続くが、いずれも嗣子なく断絶した後、松平氏が10代続き一度の戦乱にまき込まれることなく明治維新を迎えた。 明治8年(1875)無用の長物と化した櫓や多門など多くの建物はことごとく壊されたが天守だけは旧藩士や豪農の懇請により保存されることになり山陰地方唯一の現存天守としてその威風堂々たる偉容を今も宍道湖畔に映し出している。 堀尾吉晴公 (1543-1611) 松江城を築城した堀尾吉晴公は、愛知県丹羽郡の土豪の家に生まれ、岩倉城の戦いに16歳で初陣、奮戦しています。岩倉落城によって牢人となったのですが、その後、猟師暮らしをしていて、美濃の山中で木下藤吉郎(羽柴秀吉、豊臣秀吉)と出会ってその家臣となりました。武将時代の「茂助」、晩年の官名「帯刀先生」の名でも知られています。「仏の茂助」と呼ばれる温厚な人柄でしたが、20歳代から50歳まで、戦いに明け暮れ、豪勇の士として多くのエピソードを残しています。 馬に乗りただ一人貝殻塚(貝塚市)頂上に立ち、鉄砲の総攻撃を受けながら守り通したことは後世までの語り草となっています。越前一揆軍との戦いで、殿を務めながら、一揆勢を討ち取り、秀吉から「鬼の茂助」を称賛されたこともあり、その手柄の数々は信長が「茂助は毎度のこと」と讃えたほどです。 数回にわたる城受取役や敗れた城主の切腹の検視役は、吉晴公の人格と彼に対する秀吉の評価と信頼が高かったことをあらわしています。秀吉没後、三中老の一人として、徳川と前田、五奉行と徳川とのいざこざの解決に貢献し、家康から本領遠州浜松12万石とは別に越前府中5万石を贈られています。関ヶ原の合戦後、子忠氏は出雲・隠岐両国24万石を与えられ、吉晴も共に出雲の国に来ました。 松平直政公 |